東国文化とは

東国文化とは

「東国文化」とは、古墳時代から平安時代にかけて現在の関東地方周辺で栄えた文化のことを指します。

当時東国文化の中心地として栄えたのは、「上毛野国(かみつけぬのくに)」(奈良時代以後は「上野国(こうずけのくに)」)という国でした。地勢的な条件や文献に残る郡名などから、「上毛野国」は現在の群馬県とほぼ同じ範囲であったと考えられます。

天神山古墳
東日本最大を誇る太田天神山古墳
(左は女体山古墳):太田市

群馬県は、12,000基を超える古墳が造られたと考えられており、太田市にある東日本最大の太田天神山古墳をはじめとして、100m以上の巨大古墳も数多く造られた全国屈指の古墳大国です。
群馬県は、古墳時代の代表的な遺物である埴輪も全国一の質と量を誇り、我が国唯一の国宝埴輪である「武装男子立像(挂甲の武人)」は太田市から出土したものです。

他にも大陸からもたらされた金銅製品、当時の最先端技術であった馬や鉄の生産、仏教のいち早い伝来を示す山王廃寺(前橋市)や上野三碑(高崎市)など、当時の経済的な豊かさや先進性を証明する歴史文化遺産が県内の随所に残っています。

埴輪(三人童女) 埴輪(三人童女)
群馬県立歴史博物館蔵
国宝・武装男子立像 東京国立博物館蔵
(画像提供:東京国立博物館 http://www.tnm.jp/
国宝・武装男子立像

東国文化の成り立ち

なぜ上毛野国は東国文化の中心地として栄えたのでしょうか?
まず一つは「豊かな自然」です。三方を山に囲まれ、南東に開ける関東平野には幾筋もの川が流れ込み、肥沃など土壌と豊富な水が供給されていました。そのため稲作技術が伝播してきたとき、水田の大開拓が進められたのです。
一方、山麓や台地部では木の実や果物が実りました。こうした農業生産の基盤が、東国文化形成の土台となりました。

2つ目は「恵まれた環境と資源」です。たくさんの埴輪を作るには良質な粘土が必要です。また、7世紀代から東日本最大規模の製鉄が始められたのは、良質の砂鉄が採れたからです。馬の生産や絹織物が盛んになったのも、牧草地や桑畑などに適した環境があったからです。

3つ目は、「交通の要衝」であったことです。太平洋側と日本海側、中央高地を挟んだ西日本と関東地方・東日本を結ぶ縦横軸が交差する群馬県は、昔から移動・交易の結節点としての役割を果たしてきました。とくに、古墳時代から平安時代にかけては畿内の政権が東日本の統治を行う上で、最も重視した地域となりました。

このように、現在にも通じる群馬県の優れた資質を生かして生産力、経済力、政治力、軍事力等を伸ばして、古代東国をリードする大国となったのです。

上野国分寺 史跡上野国分寺跡:高崎市
上野国分寺は天平13年(741)に聖武天皇が発願し、
全国68ヶ所で建立された官立寺の一つです。
当時の寺域がほぼそのまま残るのは全国の国分寺の中でも数が少なく、
北に展開する赤城山、子持山、榛名山、浅間山の景観は見事です。

古代から現代へ

中世・近世においても、ここ群馬の地は、関東と信越を結ぶ、人、モノ、情報の流通の拠点としての歴史を刻んでいます。このように古代から蓄積された力が、明治以降の官営富岡製糸場や中島飛行機製作所など群馬県の近代産業を開花・発展させ、さらに、現在の自動車、機械、家電産業などが集積する内陸の工業地帯として受け継がれています。